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神仏習合とは何か?日本の神々を知る上で知っておきたい要点を解説!

神様のコラム

神社は古くは、血縁者や地縁者が、一族や地縁組織の繁栄を祈願する場所でした。
今日のように、神社に万人が集まって祈る場所となったのは「神仏習合」による影響と言えます。

現在、多くの日本人は、お寺と神社をあまり区別せずに、その時々に応じて参拝や信仰をしています。たとえば、お葬式はお寺で行い、お宮参りは神社で、というような使い分けをしています。

つまり、日本人の多くはお寺にもお参りに行くし、神社にも参拝に行くということです。これこそが、現在の宗教の状況であり、神仏の関係は、やはり神仏習合の形と言えるのです。

今回は、この「神仏習合とは何か?」については、日本の神々を知る上で重要なポイントとなりますので、その要点を簡単に解説したいと思います。

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神仏習合とは何か?

琴弾八幡宮
出展:4travel.jp

神仏習合とは、日本固有の神々への信仰と外来である仏教が融合してできた、かたちを言います。

仏教はもともと哲学的な教えで、「真理を得て解脱する」というものでした。しかし、仏教の創始者である「釈迦」の死後は、強勢拡大のもとに、だんだんとそのかたちが変容していきます。仏教が日本に伝来した六世紀ころには、「現世利益」を打ち出した教えとなっていました。

仏教を日本にもたらしたのは「百済の聖明王」で、その口上は「信じていれば願い事は、すべて叶う」というものでした。日本の大和政権は、この仏教の教えに魅せられ、国家鎮護のために、国をあげて仏教の受容につとめることとなります。その結果、日本はアジアにおいて、仏教大国になっていくのです。

神仏習合は、この仏教立国化の最中に起こります。

仏教側の働きによって、日本固有の神々が仏教に取り込まれていきました。では一体なぜ、このようなことが起こったのでしょうか?その背景にあったものは、民衆に、より強力な神の出現を願う気持ちが生まれたことにあります。これに仏教側が応じ、日本古来からの神々と仏たちを融合させることで、仏教の更なる霊力の向上を図ったためと考えられています。

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神仏習合による仏教の本地垂迹説とは?

西大寺の前立 牛玉所大権現
出展:西大寺

神仏習合によって、「本地垂迹説」(ほんじすいじゃくせつ)なるものが、成立していくことになります。その結果、神社に祀られている神々は、「〇〇神の本地は△△仏」と具体的に明示されるようになりました。

上記画像は、西大寺では元来密教の明王である五大明王を、神仏習合である(権現)の姿、「牛玉所大権現」(ごおうしょだいごんげん)として崇めています。
五大明王とは「不動明王」「降三世明王」「軍荼利明王」「大威徳明王」「金剛夜叉明王」で、如来の使者の事を言います。

●「本地垂迹説」(ほんじすいじゃくせつ)とは?
仏こそが神の本体であり、神としての姿を有するものは、衆生(しゅじょう)を救済するための仮の姿で顕現しているにすぎない。という説。もっと言えば、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として、日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする説。

日本の神々は神仏習合によって、「現世利益授与」の神徳を備えるようになったのです。この結果、本来、氏神や土地神を祀っていた神社は、万人が「現世利益」を願う場所として変容して行きました。

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神仏習合により生まれた神宮寺

長野県 若一王子神社
出展:信濃大町なび

神宮寺とは、神仏習合によって神社に付属して造られた寺院のことを指します。

神宮寺と神社の関係は、いろいろあったようですが、どちらが主体だったかは一概には言えないようです。京都の上賀茂神社のように、神社に従属して小さな仏堂がわずかにあっても神宮寺と称した場合もあります。また、日光東照宮のように大社ですが、寺院とその僧侶が神宮寺の運営を完全に掌握していた場合もあります。

神宮寺には「社僧」(しゃそう)と呼ばれる人が住み、神様の前でお経を読んだり、ご祈祷をしたりしていました。「社僧」は「供僧」(ぐそう)あるいは「神僧」などとも呼ばれていました。

神宮寺の宗派は、天台宗か真言宗が多かったようです。これはどちらの宗派も考え方が、神仏習合思想の基礎に深く係っていた為と思われます。

神仏習合の証である山王鳥居

日枝神社の山王鳥居
出展:4travel.jp
山王鳥居

山王鳥居は、明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)載せたものを指します。仏教の胎臓界・金剛界と神道の習合を表しているとされています。この鳥居は、山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれています。

仏の世界は、悟りの世界である「胎蔵界」(たいぞうかい)」と、知恵の世界である「金剛界」(こんごうかい)」が2つ揃う事で完成します。

●山王信仰とは?
最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神である「山王元弼真君」(さんのうげんひつしんくん)にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座していた「日吉大神」を「山王権現」と称する神仏習合の信仰です。

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神仏習合はいつまで続いたのか?

神仏分離令
出展:平和大使オンライン

明治元年に明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のために、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するために「神仏分離令」を発したのです。

この「神仏分離令」によって、神道と仏教の区別がされ、全国で「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が行われ、仏像を御神体としたり、神社に仏具を置いたりすることが禁止されました。
多くの神宮寺がお堂や伽藍を破壊され廃寺となって行きました。

●廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは?
仏教を排斥し、寺などを壊すこと。明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動のことです。

この「神仏分離令」 により、修験道系のお寺は多くが神社に転向し、残りは天台宗か真言宗に属するか、もしくは廃寺となりました。また、お寺の中に祀られていた神様が独立して、大きな神社となった場合もあります。

江戸時代には檀家(寺請)制度が作られ、 日本人はいずれかのお寺の檀家になることが義務づけられていましたが、それが廃止されると、今度は一村一社の氏神様が定められるようになりました。

また、宮中においては、それまで安置されていた仏像やお位牌はすべて京都にある天皇家の菩提寺である「泉涌寺」(せんにゆうじ)に移され、皇族のお葬式は神式となりました。

明治政府の「神仏分離令」発令の背景

明治政府は神道から外国の影響を排除し、原点に戻るという考え方がありました。明治政府はこれを「神仏分離令」によって実行するのです。日本古来の神々は、仏教伝来以降1200年にわたり仏教信仰の中に取り込まれ、「神仏習合」の状態にありました。これを神の本来の形(神を単独で祀ること)に戻すことによって、神の子孫とされる天皇の権威を復活させようとしたのです。

 

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