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八幡様は神社の中で最も多い!八幡神が人々に信仰された理由とは何か?

日本の神様と神社

日本の神様は、分霊によって神社の数を増やして来ました。八百万の神と言われるほど、日本には多くの信仰別の神社があります。その中でも、最も信仰が広まったのは八幡様でした。八幡信仰の神社は全国の神社の約一割を占めています。

なぜ八幡様が人々から、これほどまでに信仰されたのか、またどのようにして全国各地に分霊して行ったのでしょうか。

今回は、八幡様がこれほどまでに日本全国に浸透して行った、その理由を解明したいと思います。

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八幡様が神社の中で最も多い理由とは

宇佐神宮

八幡宮と言えば、大分県の「宇佐神宮」、京都府の「石清水八幡宮」、神奈川県の「鶴岡八幡宮」が有名です。これらの八幡宮は、日本三大八幡宮と呼ばれています。

この三大八幡宮は、八幡信仰が全国に広まるうえで重要な役割を果たしています。

「宇佐神宮」は八幡信仰の総本宮と言われ、ご祭神は「八幡大神」(応神天皇)「比売大神」(ひめおおかみ)「神功皇后」(じんぐうこうごう)の三柱です。

宇佐神宮の社伝によれば、聖武天皇の奈良時代に東大寺の大仏建立があり、その時「八幡大神」から「天地の神々を率いて大仏建立を必ず成功させる」という「託宣」が出されたとされています。

●託宣とは?
神が人にのり移ったり、夢に現れたりして意思を告げることを指し、いわゆるお告げと言います。

当時、「宇佐神宮」から東大寺に建立費が送られていることが分かっています。東大寺建立は国家的な事業で、ここに八幡神が関わっている事がとても重要な点になります。

日本古来からの神と、仏教が結びつく神仏習合が、すでに奈良時代に始まっていたことを意味します。このことからも分かるように、八幡神は仏教と繋がることで、その信仰を広めて行ったものと考えられます。

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僧侶によって勧請された石清水八幡宮

京都 石清水八幡宮
出展:ウィキペディア

平安時代になると、奈良「大安寺」の僧侶「行教」が、「宇佐神宮」で託宣を受けて八幡大神を、京都の男山に勧請することになります。こうして創建されたのが「石清水八幡宮」です。この神社は、僧侶によって勧請された神社であり、江戸時代まで「石清水八幡宮護国寺」と称していました。

「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう) は、旧称「男山八幡宮」と言いました。この八幡宮は、都である京都の浦鬼門を守護する重要な役割を果たしていました。その後、「清和源氏」の氏神として崇敬され、武神として信仰を集めることとなります。

そのご、源氏の台頭とともに、八幡大神は「石清水八幡宮」から勧請されるようになり、「源頼義」が鎌倉に勧請したのが、現在の「鶴岡八幡宮」です。

鎌倉期以降は、武士の守護神として篤く信仰された「鶴岡八幡宮」は、鎌倉幕府の滅亡とともに、一時衰退を見せますが、江戸時代になると幕府から守られ整備されていくことになります。

このように八幡信仰は平安時代以降、朝廷と武家によって支持されたことが、八幡信仰の拡大に繋がった大きな要因と言えます。やがてその後庶民にも八幡信仰が浸透していくこととなります。

やがて庶民が八幡神を勧請するようになり、各地域の氏神として祀るようになります。このように八幡神が庶民層にまで広がりを見せたのは、やはり仏教との融合が何といっても、大きな要因に違いありません。

外来の宗教である仏教は、日本古来からの神と深く結びつくことにより、日本の社会に深く浸透する一方で、日本古来の神々もまた、仏教思想や僧侶の力を借りて分霊を加速して行ったのです。

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八幡神はなぜ源氏に信仰されたのか?

鶴岡八幡宮
出展:ウィキペディア

鎌倉幕府を開いた「源頼朝」と縁の深い「鶴岡八幡宮」が、武神として篤く信仰されたことは、よく知られています。八幡神が武神の性格を持つようになるのは、「源頼朝」の時代よりももっと前にさかのぼります。

前述したように「鶴岡八幡宮」は、京都の「石清水八幡宮」から勧請されて創建された神社です。勧請したのは「源頼朝」より五大前の「源頼義」です。「源頼義」は、奥州での「前九年の役」の際、「石清水八幡宮」に必勝祈願をしています。このときすでに八幡神を武神として信仰していたことが分かっています。

源頼義はこの「前九年の役」に勝利し、地元の河内に八幡大神を勧請し、「壷井八幡宮」を創建しています。その後、東国の遠征にあたり、鎌倉を拠点として、この地にも八幡大神を勧請しています。のちに「源頼朝」が現在の鎌倉市材木座に「鶴岡若宮」という社を祀ったのが、現在の「鶴岡八幡宮」の起源とされています。

「源頼義」の子である「源義家」は、七歳のときに「石清水八幡宮」で元服したことから、「八幡太郎」と名乗っており、源氏の中でも英雄視されています。このことからも、「源頼義」八幡神への信仰は、ただならぬものと思われます。

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なぜ八幡神は源氏に武神として崇敬されたのか

僧形八幡神
出展:ウィキペディア

「八幡神」(やはたのかみ)とは、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から、武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。別名「誉田別命」(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、「応神天皇」と同一とされています。また、「神仏習合」により、「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)とも称されています。

「八幡神」が初めて歴史書に登場するのは「続二本紀」の記述にあります。そこには、朝鮮半島の新羅との関係が悪化したので、朝廷は「伊勢神宮」と「大神神社」、筑紫の国(福岡県)の住吉と香椎、そして八幡に使者を出して神々に報告したと記されています。

この八幡というのは、「宇佐神宮」を指しています。

福岡市の「住吉神社」と「香椎宮」は、「神功皇后」(じんぐうこうごう)の朝鮮出兵ゆかりの神社です。「神功皇后」は朝鮮の新羅を平定した女傑で、帰国後に出産した御子が後の「応神天皇」です。

「八幡神」とは、「応神天皇」の神霊とされています。

この「神功皇后」の朝鮮出兵の際に「宇佐神宮」が登場していますが、この時はすでに「八幡神」と「武神」が結びつけられていたことになります。また、大宰府で勃発した「藤原広嗣の乱」のおり、征伐に向かった朝廷軍が八幡宮で戦勝を祈願したと「続日本記」に記されています。

天元二年(979年)以降に、天皇、上皇の「石清水行幸」が始まり、伊勢神宮に次ぐ国家第二の「宗廟」(そうびょう)と言われるようになりました。

このような歴史的な背景を踏まえ、源氏は「八幡神」の神徳に頼もしい「武神」を見出して、崇敬したものと思われます。

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